エジプトの中央部に位置する古代エジプト最盛期の中心地「テーベ」。
「テーベ」という名はかつてのものであり、現在は「ルクソール」という名前となっている町になります。
テーベの名前なら学生時代に世界史で触れたという方もいるはず!
エジプトの観光地といえば首都のカイロ、そしてギザのピラミッドが非常に有名ですが、「古代エジプトを味わう」という意味ではここルクソール(テーベ)の方が数段も上手でありオススメできる観光地でした!
(少しニュアンスは異なりますが、日本でいう東京と京都、みたいな。)
カイロと同様に町を東と西に分断するナイル川も美しく、また、ナイル川が非常に重要な役割を果たしている町でもあります。
ということで、今回はルクソール(テーベ)の町の見どころをダイジェストでご紹介!
まずはこの記事でルクソールのことをザックリと知っていただき、見どころをおさえていただければと思います!
※今回に限らず、エジプトの記事では「ルクソール」と「テーベ」の名前を混在してご紹介することとなります。
僕の中では「古代エジプトの都市としてご紹介するときは”テーベ”」、「現代の都市としてご紹介するときは”ルクソール”」と定義して記述しているつもりですので、読者の皆さまもそのように解釈していただけると読みやすいかと思います!
ルクソール(テーベ)について
まずはルクソール(テーベ)の基本情報から。
かつて「テーベ(Thēbai)」と呼ばれていた町「ルクソール(Luxor)」は、現在はその歴史を活かした観光業によって成り立っていると言っても過言ではないほどの観光都市。
経済力はお世辞にも良いとは言えない都市であり、エジプトの中でも貧困層に部類される住民も多く暮らしています。
観光業の他には農業、特にサトウキビの栽培によって生計を立てている住民が多いそうです。
観光地としてのルクソール
気候
一年を通じて雨はほとんど降らず、ナイル川沿いの数十、数百メートルを除くと文字通り”砂の町”。
当然日差しが痛いほどの暑さでもあり、観光の際は日差し対策をしっかりとし、こまめな水分補給を心がけてください。
個人的にはとんでもなくカラカラとした暑さに感じたので、日本のようにまとわりつくようなウザったい暑さではなく、シンプルに「ア゛ァツイ!!」となる暑さでしたね!笑
カイロからルクソールまでの道のり
首都のカイロからは、飛行機の国内線で1時間ほど、電車で10時間ほどの距離です。
飛行機なら事前の予約が可能ですが、カイロでの空港までの移動が若干手間になるかもしれません。
電車は、普通電車(長距離列車)と寝台列車があります。
ネットでは、普通列車のチケットは観光客には売ってくれないとありましたが、僕が行った際の印象としては「普通列車はおろか、寝台列車も初見で個人手配はハードルが高い」でした。笑
ゲストハウスに宿泊される予定の方は、宿の店主さんに聞く、あるいは代行をお願いするなどの手段を用いるのが最も手っ取り早いかつ確実です。
普通のホテルに泊まる予定の方も、とりあえずホテルの受付の人に聞いてみるのはアリ。
最終手段は、タクシーの運転手にチップ(バクシーシ)を払って手伝ってもらう、という手段になりますね。
僕は、カイロ・ギザでの初日、”終わってみたら”一日タクシーをチャーターする形となったので、そのままタクシードライバーに手伝ってもらえました!
ルクソールに限らず、エジプト観光はツアーで行くのが最も無難ではありますよ、きっと。笑
(その分”生”のエジプトは感じにくいかもしれませんが…!)
ちなみに、ルクソールからさらに南の観光地「アスワン」までは、電車で2時間ほど。
ルクソール訪問の後にアスワンにも行ったのですが、アスワンへの電車の乗車券を購入した際の記憶はなぜかまったくないのです。。
ですので、どう取ったのか本当に憶えていないのですが(笑)、少なくとも移動できている以上、受付で英語を使って予約をできたのだと思います!笑笑
👇より詳しくエジプトの観光情報を知りたい方は、こちらのギザ・ピラミッドの記事をご覧ください!
客引き
当然のごとく、ルクソールにも客引きは多数存在します。
ナイル川の東岸に位置するルクソールの”玄関口”である駅から一歩出ると、とにかく客引きが寄ってきます。
タクシーの呼びかけはもちろん、ホテルの客引きもいますし、西岸の遺跡群を巡るツアーの客引きもいます。
ホテルは一概には言えませんが、タクシーや観光ツアーはどれも個人手配のものですので、信じすぎは厳禁。
「許可証だ」とか「これ名刺ね」みたいなことを言いながらネームカードを見せてきても、話半分に聞いておくのが吉です。
ただ、ナイル川東岸の駅からまっすぐ行ったところにある「ルクソール神殿」を除くと、ルクソールの遺跡を巡るにはとにかく移動の”足”が必須となります。
ルクソール神殿とともに東岸の見どころである「カルナック神殿」は、中心地から距離があり(僕は時間に余裕があったのでバカみたいに歩いたのですが、1時間くらい歩きっぱなしでした笑)、西岸の遺跡群にいたっては、歩いて巡るのは文字通り自殺行為かつ、見どころをできるだけ巡ろうというのならどうやっても一日二日ではまわりきれません。
ですので、タクシーをひろうか街中を走る馬車(”calèches”と呼ぶそう)が必要となります。
その際は、必ず事前の値段交渉を忘れずにしましょう。
そして、西岸の遺跡群を巡る場合は自分が行きたいところをはっきりと伝えておくことも必要です。
「ここと、ここと…と、ここに行きたい!すべてでこれくらいの額で!」みたいに。
僕は、この後ご紹介する西岸5カ所+ナイル川を渡る往復代で、USドルで$20+バクシーシ(チップ)でした。
「これ以上は下げられない」と言われての値段でしたし、当時の物価と内容を見ても適正な価格だったと僕は思っていますね!
👇東岸から西岸に渡った際のエピソードは、こちらのメムノンの巨像の記事に詳しく書いています!
古代エジプトにおけるテーベの歴史
お次は、古代エジプトの歴史における都市「テーベ」の歴史について。
古代エジプト語では「ワセト」と呼ばれていたテーベは、もともとエジプト南部(ナイル川上流側という意味で「上エジプト」と呼ばれます)の中心地でした。
エジプト全土を統一した王朝は大きく分けて「古王国時代」、「中王国時代」、「新王国時代」に分けられます。
古王国時代では、エジプト北部(下エジプト)のメンフィスが首都とされていたため一地方都市にすぎなかったテーベですが、中王国時代の始まりとされる第11王朝のファラオ(古代エジプト王)であったメンチュヘテプ2世がテーベを首都としたことで、世界史上に登場することとなります。
その後、再び首都がイチタウイというメンフィスの近くの都市に移されたことから、テーベは行政上の機能は失うこととなりますが、この頃からエジプト全土に広まっていたテーベの地方神であるアメン(アメン・ラー)の信仰の中心地としての役割は残り続けることとなります。
そして、新王国時代に区分される最初の王朝である第18王朝のファラオ「イアフメス1世(アハメス王)」がテーベを拠点としてエジプトを再統一したことから、テーベは一気に最重要都市となります。
というのも、当時のエジプトはパレスチナ方面から侵入してきたとされる異民族「ヒクソス」によって建てられた下エジプトの王朝と、イアフメス1世がテーベを拠点として建てた上エジプトの王朝が両立していた時代でした。
(ちょっと違うけど、日本の歴史でいう南北朝時代みたいな。)
そんな中、イアフメス1世がヒクソスをエジプトから撃退することに成功し、これがテーベの地方神であるアメンのご加護によるものだとされたのです。
このことから、テーベは新王国時代における信仰の町とされ、行政機能が置かれた首都メンフィスに並ぶ都市へと急成長を遂げたのです。
(テーベは新王国時代の”首都”と位置付けられていることも多いですが、テーベはあくまで”宗教関連の中心都市”であり、”行政機能”はメンフィスに置かれていたとされています。)
新王国時代では、“軍人王”トトメス1世や“古代のナポレオン”トトメス3世、そして”古代エジプト一の大王“ラムセス2世といった優れたファラオたちの統治によって、長らく安定した国運営がなされます。
この時代から、ファラオによる「古代エジプトの象徴」ともいえるピラミッド建築はなされなくなり、代わりにテーベ西岸の丘をピラミッドに見立てて葬祭殿を建築し、自然の地形全体でピラミッド・コンプレックス(簡単にいうと、ファラオが死後、再生・復活するための場)を表現していたと考えられています。
そのため、テーベの町の中心を流れるナイル川で隔てられた東側を「太陽が昇る町」として「生者の町」、西側を「太陽が沈む町」として「死者の町」と扱っていたとも考えられています。
大王ラムセス2世の数世代後のファラオであるラムセス3世の時代の末期になると、国の経済が傾き始め、同時にテーベのアメン神官団が力を持つようになります。
主にはこの二つの要素によって国は不安定となり、次第に衰退の一途を辿るようになります。
テーベは、その後の混乱期にはアッシリア王アッシュール・バニパルによる支配を受け、アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の系列であるプトレマイオス朝の時代には中央政権と対立する関係となり、結局は制圧されることとなります。
そして、クレオパトラ7世の死をもって終焉した古代エジプト王朝の後、エジプトを支配したローマ帝国の時代には、テーベはただの一村落となり、歴史に登場することもなくなりました。
つまるところ、テーベの歴史は古代エジプト王朝、特に新王国時代の王朝と密接に関わっているということができますし、それゆえ古代エジプトの絶頂期の様子を伺うことができる都市と言えるでしょう。
👇より細かな古代エジプトの歴史を知りたい方も、こちらのギザ・ピラミッドの記事をご覧ください!
ルクソール(テーベ)東岸の観光地・見どころ
ではでは、ルクソールで実際に見ておきたい観光地をご紹介していきます!
まずはナイル川東岸から。
ナイル川の東側ということで「太陽が昇る町」、すなわち「生者の町」とされた東岸地域には、生前の信仰のために使われた神殿が建築されました。
その中でも見ものなのが、ルクソールの、そしてエジプトの二大神殿とされる「ルクソール神殿」と「カルナック神殿」になります。
ルクソール神殿(Luxor Temple)
もともと「ルクソール神殿(Luxor Temple)」は、後述するカルナック神殿の”心臓部”とも言える「アメン大神殿」の付属神殿として建立された神殿で、完成当初はアメン大神殿と、両側にスフィンクスが並べられた参道と結ばれていました。
(この参道の名残はルクソール神殿、並びにカルナック神殿のどちらにも残っていますよ!)
数世代のファラオに渡って増築・改築がなされたルクソール神殿ですが、その中でもルクソール神殿の建立に力を注いだのが“建築王”アメンホテプ3世であり、僕たちが見ることができる現在のルクソール神殿の大部分は彼の時代に建てられたものと考えられています。
実際に神殿に行ってみると、入り口部分にあたるところに立つオベリスクとラムセス2世の坐像が中でも圧巻でしたね!
ちなみに本来オベリスクは二本立っていたのですが、近世に入って当時オスマン帝国からの独立を図っていたエジプト総督「ムハンマド・アリー」がフランスに贈ってしまったことから、現在は一本のみとなっています。
その後、フランスへと贈られたオベリスクは「クレオパトラの針」としてパリのコンコルド広場に立てられています。
(英語では”Luxor Obelisk”と書きますし、オベリスクとクレオパトラは何の関係もないので、この日本語がいかにおかしいかお分かりでしょう。。笑)
👇コンコルド広場をはじめとするパリ中心部の見どころについてはこちらをご覧くださいね!
ルクソール神殿の基本情報
開場時間
6:00~21:00
夜間ライトアップも有りますが、日が落ちてから街を歩く際は十分にご注意ください。
入場料
60£E(学生は30£E)
その他注意事項
隣接するモスクが大きく、一見すると神殿への入り口のように見えます。
が!そちらはモスクのみとなっています!
その辺にいる人に「ルクソール神殿の入り口はどこ?」と聞いても、そちらのモスクに連れて行かれそうになる(というか僕はなった)ので、ご注意を!
ルクソール神殿の入り口はモスク入り口へ入る階段の隣の、階段を降りたところにあります!
(2016年段階での情報ですので、こちらも変わっている場合がございますのでご注意ください。)
👇ルクソール神殿について詳しくはこちら!
カルナック神殿(Karnak Temple)
「カルナック神殿(Karnak Temple)」は「カルナック神殿複合体(Karnak Temple Complex)」とも呼ばれる、敷地内にいくつもの神殿をもつ複合神殿です。
その規模は、エジプト国内最大であるだけに留まらず、世界的にみても非常に広大な規模を誇る遺跡となります。
神殿そのものは、古代エジプトの中王国時代の頃から建立されていたと考えられていますが、はじめはテーベの地母神であるムトやモンチュ、テーベの守護神アメンに捧げられた比較的小規模のものでした。
しかし、第18王朝以降の新王国時代にテーベが宗教上の中心地となり、アメン信仰が太陽神ラーと結びついてエジプト全土に広がると、カルナックは「聖地」として非常に重要な地として扱われるようになります。
“最初で最後の女性ファラオ”ハトシェプスト女王や”建築王”アメンホテプ3世、”大王”ラムセス2世といった、今日にもその功績が残されているファラオはもちろんのこと、新王国時代のほぼすべてのファラオたちが神殿に何かしらの建造物や自らの名前を追加していった結果、現在の規模に至ったとされています。
その中でも最大規模にして最重要神殿であると同時に、カルナック神殿一番の見どころであるのが「アメン大神殿」になります。
テーベ最盛期における最高神であるアメンに捧げられた神殿で、実際に見てまわると、様々なファラオの巨像や列柱、壁画や描かれたヒエログリフなど、そのすべての規模が図抜けていましたね!
これら圧巻の神殿はもちろんですし、アメン大神殿に付随する神殿やため池などの施設も見ることができますので、ルクソールに来たら必見の観光地ですよ!!
カルナック神殿の基本情報
開場時間
6:00~17:30
入場料
80£E(学生は40£E)
その他注意事項
上の「客引き」の見出しでも書いた通り、駅前や街の中心部からカルナック神殿へは歩いて向かえなくもないですが、20歳男性の足をもってしても1時間近くかかりました。笑
ですので、市内をまわるマイクロバスを使うのが最も安上がりになりますが、アラビア語が話せない限り観光客が使いこなすのはかなり難しいのではないかと思います。
(ルクソールの一般市民は英語が話せないと考えた方がよいです。)
ですので、街中を巡回しているタクシーや馬車をつかまえ、適切な値段交渉をしてから移動することをオススメします。
(僕が行った際の基準ですと、高くても5£Eくらいが妥当かなと感じました。)
👇カルナック神殿について詳しくはこちら!
Coming soon!!
ルクソール(テーベ)西岸の観光地・見どころ
お次はナイル川西岸の見どころ。
ナイル川の西側は「太陽が沈む町」、すなわち「死者の町」とされ、死後の世界を信じた古代エジプト人ならではの、ファラオたちの墓や葬祭殿が建ち並んでいます。
数多くの見どころがありますが、今回はその中でも特に行っておきたい代表的な5ヶ所(そして僕が行った5ヶ所でもあります)をご紹介します!
メムノンの巨像(Colossi of Memnon)
ここ「メムノンの巨像(Colossi of Memnon)」は「ルクソール西岸の玄関口」とも言える観光名所でしょう!
ギリシア神話のトロイア戦争に登場するエチオピア王メムノーンが名前の由来となったと言われています。
現在はこの巨大な二体の像が残るのみとなっていますが、ここにはもともとアメンホテプ3世の葬祭殿が建っており、メムノンの巨像は葬祭殿の入り口部分であったと考えられています。
ちなみに、アメンホテプ3世は「建築王」とも呼ばれる新王国時代のファラオで、先代のファラオたちが国力と経済力を安定化させていたこともあって歴代ファラオの中で最も多くの建造物を建築したファラオです。
そんなアメンホテプ3世の葬祭殿は、当然のことながらとにかく巨大化かつ豪華なものだったとされており、その規模は後述の「ハトシェプスト女王葬祭殿(デル・エル・バハリ)」を上回っていたとさえ言われています。
現代に残っていないのがただただ残念です、、が、そんな葬祭殿が立っていたという想像をすると、この先に広がるテーベの遺跡群への期待が膨らみましたよ!
ラムセス3世葬祭殿(メディネト・ハブ / Medinet Habu)
”エジプト帝国のファラオ”として大々的な軍事行動と建築事業を行った最後のファラオであることから、ラムセス3世は「最後の偉大な王」と呼ばれています。
そんなラムセス3世の葬祭殿が「メディネト・ハブ(Medinet Habu)」になります。
数あるラムセス3世の建造物の中でも最大の規模を誇る建築であり、彼の治世で最大の功績とされる「海の民」との戦いの様子を表した壁画のレリーフは、”古代エジプトらしさ”を味わうには十分な一枚絵でした!
エジプト国内を見回しても数少ない保存状態が大変に良い遺跡の一つでもあり、古代エジプトに想いを馳せるにはまさにもってこい!!
ちなみに、ほとんどの本やネットの情報で書かれているものに倣い、英語名をカタカナにした「メディネト・ハブ」と書きましたが、現地の人は「メディーナ・ハブ」という発音に近い形で呼んでいましたよ!
ラムセス3世葬祭殿(メディネト・ハブ)の入場料
40£E(学生は20£E)
ハトシェプスト女王葬祭殿(デル・エル・バハリ / Deir el Bahri)
古代エジプトの女王といえば、「クレオパトラ」ことクレオパトラ7世が非常に有名ですよね!
また、人気ゲームFate/Grand Orderで登場する「ニトクリス」も、第6王朝最後の”女性ファラオ”として振る舞っています。
しかし、クレオパトラはギリシア系のプトレマイオス朝の女王であり、ニトクリスは同時代の男性のファラオと同一視されていたり、そもそも存在自体があやふや。
そんな中、史実に明確に残っているかつ”生粋の”古代エジプトの女性ファラオが一人だけ存在します。
その女王こそ「ハトシェプスト」になります。
今日において実在が確認されている”エジプト系”ファラオの中では、最初にして最後となる唯一の女性のファラオです。
そんな彼女の葬祭殿が、「デル・エル・バハリ(Deir el Bahri)」こと「ハトシェプスト女王葬祭殿」になります!
ハトシェプストの次のファラオであるトトメス3世の政略によって、ここデル・エル・バハリを含むハトシェプストに関わる建築物は破壊され、記録は抹消されていたのですが、様々な角度からの研究や修復によって、現在ではハトシェプストの歴史が明らかとなり、遺跡も健在となっています。
切り立った崖を削って造られたテラス式の葬祭殿は本当に圧巻で、華々しい新王国時代の先駆けを垣間見ることができましたよ!
ハトシェプスト女王葬祭殿(デル・エル・バハリ)の入場料
50£E(学生は25£E)
王家の谷(Valley of the Kings)
「王家の谷(Valley of the Kings)」は、テーべ西岸の岩山の谷にある、新王国時代の歴代のファラオたちが眠る岩窟墓群になります。
こちらの英語名もラムセス3世葬祭殿同様一般的なものを載せましたが、現地の人は”king(s) Valley”と呼んでいましたね!
ここ王家の谷には、未だ誰のものか定かではないものを含めると64もの王墓が存在しますが、そのほとんどが発見時点ですでに盗掘に遭っていました。
しかし、1922年11月、イギリスの考古学者ハワード・カーターによってまったく手付かずの状態であったツタンカーメン(トゥト・アンク・アメン)の王墓が発見され、ツタンカーメンの黄金のマスクとともに世紀の大発見として一躍注目を集めることとなりました。
ツタンカーメンは、アテン一神教への宗教改革を進めたアクエンアテン(アメンホテプ4世)の息子とされており、幼少期はアクエンアテンによって建設された一代きりの都アケトアテン(テル・エル・アマルナ)で過ごしていたとされています。
しかし後世のファラオたちによって、「アマルナ時代」と呼ばれるアクエンアテンの治世に関わるものが次々と抹消され、今日に残る、ないしは発見されているアマルナ時代の資料は非常に少ないものとなっています。
そんなアマルナ時代に幼少期を過ごし、若干19歳という若さでこの世を去ったとされるツタンカーメン。
当然現存の資料は少なく、ツタンカーメンについては謎が非常に多いです。
まぁそれゆえ名が知られておらず盗掘に遭っていなかったとされていまし、何より古代ならではのロマンを感じることができるのですが…!!
ちなみに、ツタンカーメンの黄金のマスクは、カイロのエジプト考古学博物館に一般展示されていますよ!
👇アクエンアテン(アメンホテプ4世)(アマルナ時代)については、こちらのメムノンの巨像の記事にまとめています!
王家の谷の観光情報
入場料
100£E / 学生は50£E
備考
公開されているのは十数カ所の王墓(時期によって入れたり入れなかったりする王墓がある)で、うち3ヶ所には入場券で入ることができます。
4箇所目以降とツタンカーメンの王墓、ラムセス5世の王墓、ラムセス6世の王墓への入場は別途入場料が必要となります。(課金制、みたいな。)
入場時にカメラは預けることになり、各王墓内は撮影禁止です。(が、バクシーシを渡せばスマホで撮れます、てか撮れました。笑)
👇ツタンカーメン黄金のマスクが展示されているカイロのエジプト考古学博物館についてはこちらの記事で紹介しています!
Coming soon!!
ラムセウム(ラムセス2世葬祭殿 / Ramesseum)
「大王」や「建築王」の異名を誇る、長きに渡る古代エジプトの歴史においても傑出したファラオであったラムセス2世が自身のために建造したのが、「ラムセウム(Ramesseum)」こと「ラムセス2世葬祭殿」になります。
ギリシア語では「オジマンディアス」と呼ばれるラムセス2世は、その異名に相応しい逸話を数多くもつファラオです!
身体的な逸話から挙げると、、
当時からしたら考えられない体躯(約180cm)を誇った、
66年間もの長きに渡ってエジプトを統治し90歳で没したとされる長寿であった、
第1王妃ネフェルタリをはじめとする数多くの王妃や側室との間に111人の息子と69人の娘を設け、娘の中には父親であるラムセス2世と親子婚を行った者もいた、
などですね!
政策の逸話としては、
ヒッタイトとの「カディシュの戦い」ののちに、世界史上はじめて和平条約を結んだ王
というものが一番知られています!
ラムセウムは、「ロゼッタ・ストーン」を用いてヒエログリフを解読し、ここ「ラムセウム」の名付け親でもある「エジプト学の父」シャンポリオンが「テーベで最も高貴にして典雅な建物」と称した場所でもあります。
建設当初は非常に巨大かつ豪華絢爛な葬祭殿だったとされますが、現在残るのはほんの一部分のみ。
ラムセス2世の偉業からしたらあまりに寂しい雰囲気の観光地ではありますが、それでも立ち並ぶラムセス2世像は圧巻でしたし、何より”廃墟感”がたまらなかったですね!
ちなみに、ラムセス2世の建築として有名な「アブ・シンベル大神殿」は、ルクソールからさらに南下したところにある町アスワンから、さらに車で4時間ほど走ったところにある遺跡になります!笑
ラムセウム(ラムセス2世葬祭殿)の入場料
40£E(学生は20£E)
ルクソール / テーベ・ダイジェスト まとめ
今回は、エジプト随一の観光地ルクソールについてご紹介してきました!
東岸の二つの神殿・西岸の遺跡群とどれをとっても見どころ満載で、加えて古代エジプトについて知り、感じることができる場所でした!
遺跡それぞれの特徴に差異があるため、人によって”お気にいり”が変わってきそうなのもおもしろいと感じましたね!
これら遺跡群、陸で巡る以外にも、実は早朝に西岸を巡る気球ツアーも人気なのだそうですよ!(まぁかなりお高いようですが…)
街の雰囲気はカイロとはまた違った雰囲気で、喧騒と静寂が混じったような印象を受けました。
遺跡以外だと、夕方のナイル川は本当に絶景でしたね!!
ナイル川を挟んだ西岸のさらに奥へと沈む太陽が、なんとも言えない感動を呼び起こしてくれました。。
ということで、ルクソールはエジプトの歴史や宗教などに関心・興味がある方は必見の名所ですし、そうじゃない方でも楽しめること間違いなしの観光地です!!
ぜひ一度、足を運んでみてくださいね!
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