みなさんこんにちは! 観光情報サイト「旅狼どっとこむ」の旅狼かいとです!
今回は、岐阜県で知る人ぞ知るお城の名所「苗木城跡」をご紹介します!
小高い丘の上に立つその姿から「岐阜のマチュピチュ」「岐阜のラピュタ」とも称される国指定史跡の山城で、城跡と石垣の風景はもちろん、天守跡に設けられた展望台から山々を望み木曽川を見下ろす景色は、見た者全員を唸らせる絶景となっています。
そんな苗木城について、歴史や伝説はもちろん、見どころやアクセス、駐車場情報まで観光前に知っておくとより旅行が楽しくなること間違いなしの情報をお届けします! 岐阜観光・東海観光をお考えの方はぜひこの記事をご覧になってみてくださいね!
苗木城跡の見どころ
今回は早速、苗木城跡に行ったら絶対に見逃せない見どころからご紹介していきます!
①足軽長屋跡
天守閣跡が立つ三の丸へ向かうと最初にある写真スポットが「足軽長屋跡」です。ここから見る苗木城跡こそ、「岐阜のマチュピチュ」「岐阜のラピュタ」という異名にふさわしいと個人的には感じます!
道に立て札はあるのですが、パッと見るだけでは苗木城を見ることができずその区画には何もないため、「長屋跡なんて興味ないわ〜」と見逃してしまう人が意外と多いと思います…!(案内の名前を変えるべきだと思う。笑)
②大矢倉
「大矢倉」はその名の通り、迫力ある大きな矢倉跡です。自然の巨石と人の手による緻密な石垣の組み合わせは、日本の山城ならではの雰囲気を感じつつも確かにマチュピチュ感もありますよね!(行ったことないのになぜかそう感じるやつね!笑)
苗木城の石垣は年代によって積み方が異なり、計6つの技法が存在するといいます。特に初期の頃は自然の石をそのまま積み上げており、加工することなく巨石を取り込んでいる石垣は全国的にみてもとても特殊だそう。確かに大きな岩がとても印象的で、これもまた古代遺跡感を強めていますよね!
第二駐車場に併設する苗木遠山史料館でパンフレットを貰えば石垣の詳細を知ることができますから、気になる方は立ち寄ってから苗木城跡に向かいましょう!
ちなみに、個人的には大矢倉近くから天守を見上げた風景もまた、”ラピュタ感”をとても感じたのでオススメです! 石垣に苔や木々の緑が茂っているのも、より一層雰囲気をつくってくれていますよね!
③笠置矢倉
「笠置矢倉」は城下の眺めを一望できる写真スポットでも、天守展望台に勝るとも劣らない場所。右手側の笠置山方向にひらけており、緑の森を抜ける木曽川にかかる赤い橋がとにかく映えているのが印象的です!
天守から笠置山の方を写真で撮ると脚組が入ってしまうため、完全に風景だけを写真に収めたい方は要チェックです!
④天守展望台
苗木城頂上の天守閣に立てられた展望台は、このエリア一帯を見渡すには完璧なビュースポットです! 文字通り360度の大パノラマが広がり、左手側に中津川のシンボルである恵那山と街並みを、眼下には優雅に流れる木曽川を眺めることができます。
過去には「絶景!山城ベスト10」の第1位にも選ばれた、岐阜県でも有数の絶景スポットです!
ちなみに、苗木城は京都の清水寺と同じ「懸造り」という建築方式によって建てられています。「崖造り」などとも呼ばれる懸造りは急峻な崖や山の斜面に建物を建てるための技法で、まさに山がちな日本らしい建築といえます。
現在の苗木城跡の天守台も懸造りによって建てられており、しかも、自然の巨岩を削って土台にし、その上に柱を立てているという状態になっています。この岩の土台はかつてお城の天守が建てられていた時のものをそのまま利用しているそうですから、本当に驚きですよね!
⑤馬洗岩
天守展望台を降りて帰路に入ると、「馬洗岩」という巨岩の横を通ります。
山の上にこのような大きな岩があるというだけでも驚きですが、言い伝えでは「この岩に馬を乗せて洗った」と伝えられているのです。
名前の由来にもなっている伝承ですが、あえて岩の上で洗う必要はあったのだろうか…と冷静に考えてしまうとちょっと可愛いスポットでもありますね! 笑
苗木城跡へのアクセス
〒508-0101
岐阜県中津川市苗木
TEL:0573-66-8181
【電車・バスの場合】
・「JR中津川駅」前から北恵那交通バス付知峡線 「付知峡倉屋温泉」行きまたは「加子母総合事務所」行きの「苗木」で下車後、徒歩約20分
・春と秋の期間限定で中津川駅と苗木城跡を結ぶ直通バスが運行される
【車の場合】
・中央自動車道「中津川IC」から国道19号を国道257号(下呂方面)方向へ向かい、城山大橋を経由すると見える看板を右折
・下呂温泉方面から国道41号を通って国道256号・257号を経由する
駐車場
苗木遠山史料館の横を通って登るとある第一駐車場か、史料館が併設する第二駐車場を利用する
苗木城の歴史
お次に、苗木城の歴史をご紹介します。苗木城や苗木城と深く関わる遠山氏の歴史はハッキリしていない点が多いため、いくつかの有力視されている情報をまとめてお話しします。戦国時代のあれこれがガッツリ絡んでくるので、日本の戦国ロマンが好きな方にとってはかなり面白い歴史になっていると思いますよ!
苗木城のはじまり
苗木城築城のきっかけは、鎌倉時代の元弘年間(1331~1334年)、「遠山景長」親子が当時「高森山」と呼ばれていた現在の苗木町に砦を築いたこととされています。
「遠山氏」は源頼朝の側近「加藤景廉」の血を引く家系で、苗木城・金山城と共に「岐阜の三山城」に数えられる岩村城を拠点とした「岩村遠山氏」が中心となって栄えた一族です。
苗木城築城
応仁の乱が勃発し日本が戦国時代に突入した1467年ごろ、一度は小笠原氏・木曽氏の両一族に領地の多くを占領された岩村遠山氏。しかしその後、小笠原氏の内紛に乗じて旧領を奪還します。
この頃の書物に「遠山には三魁がある。第一は苗木、第二は明智、第三は岩村といい…」と書かれていることから、本家である岩村遠山氏が領土を減らしていた時期に、分家の「苗木遠山氏」の勢力が増していたと考えられています。
そして天文21年(1552年)、子がいなかった苗木遠山氏の遠山景徳の養子として、岩村遠山氏の「遠山直廉」が迎えられます。そして、この直廉が苗木城を築いたとされています。
戦国時代において、苗木城主は「遠山勘太郎」という名前を一貫して名乗っていたとされています。そのため、直廉のあとを継いだ遠山友勝もまた勘太郎の名前で書物に登場しているらしい。ただでさえややこしい遠山氏と苗木城の歴史が、さらにゴチャゴチャしている理由でもあります。。笑
苗木城と遠山氏
遠山直廉が苗木城を築城した頃の遠山氏は、隣接する甲斐・信濃の武田氏と尾張の織田氏との間で板挟みの状態になっていました。実際、「遠山七頭」と呼ばれていた遠山氏の分家も、それぞれで織田氏側・武田氏側に従う形となっていました。
そんな状況の中で苗木城主の遠山直廉は、表向きは武田氏に臣従しながら織田氏側として桶狭間の戦いにも参加し、その後に信長の妹を娶っています。そしてこの立場を活かし、織田信長と武田信玄の同盟関係を仲介していたともされています。
その後、直廉もまた男子の後継を残せないまま没したため、遠山氏分家の一つ「飯羽間遠山氏」の「遠山友勝」が苗木城主を引き継ぎます。しかしこの友勝の命はその後長く続かず、すぐに子の「遠山友忠」が城主を継ぐことになりました。
遠山直廉が信長と信玄を結んでいたとよく語られるのは、「直廉と信長の妹の一人娘が信長の養女となり、「龍勝院」として信玄の後を継いだ武田勝頼の正室になった」という話が知られているからです。信長が武田勝頼率いる騎馬隊を足軽鉄砲隊によって破った「長篠の戦い」があまりに有名ですが、もしも信玄の死がほんの少しでも遅かったならば違った歴史になっていたのは間違いないでしょう…!
苗木城攻防戦 ~織田氏と武田氏の戦い~
応仁の乱に端を発し、群雄割拠の戦国時代に突入した日本。ついに苗木城も戦場となる時がきます。
遠山友忠が城主になった頃とされる天正元年(1573年)、武田信玄の命を受けた木曾義昌が苗木城を攻め落とします。しかし木曾義昌は、信玄が没したことで後を継いだ勝頼の敗北や領地への重税政策に不満を抱くようになります。そして、織田氏側に逃げ延びていた遠山友忠を通じ、織田信長に臣従することとなりました。
これによって武田側から織田側へと転じた苗木城を、今度は裏切られた武田勝頼が攻め落とします。
今度こそ武田側の支配下に置かれた苗木城でしたが、2年後の1575年、長篠の戦いにおいて武田勝頼が織田・徳川連合軍に大敗すると、その機を逃さず織田信忠が苗木城を奪還することに成功。木曾義昌と信長を繋いだ功績や甲州征伐での戦績を評価され、遠山友忠が再び苗木城主となりました。
しかし、これで終わらないのが戦国時代なのです。
苗木城攻防戦 ~織田・豊臣と徳川の戦い~
1582年の本能寺の変によって織田信長が討たれると、それまで織田氏側にいた遠山友忠は信長の側近であり信長の仇討ちを狙う森長可の暗殺を企てます。
というのも、織田信忠は苗木城を奪還した際に同じく岩村城も攻め落としているのですが、このとき武田側に従属していた岩村遠山氏をはじめとする多くの遠山一族が滅ぼされていたのです。友忠は遠山一族の本領である岩村城を奪還するべく、森長可と対峙する道を選びます。
しかし、友忠の森長可の暗殺は失敗。その後、豊臣秀吉らの後ろ盾を得た森長可によって苗木城は落とされてしまいます。城主の遠山友忠はというと今度は徳川家康を頼ってなんとか落ち延び、苗木城は豊臣秀吉の家臣である「河尻秀長」が治めることになりました。
ですが、河尻秀長が苗木城に入ってすぐに関ヶ原の戦いが勃発。西軍についた河尻秀長軍を東軍についた遠山友忠が攻め落とし、ついに遠山氏が苗木城を奪還することに成功したのです。
そして、徳川家康が幕府を立てると苗木城は遠山友忠にそのまま与えられ、のちに苗木藩が成立することになったのでした。
にしても、、のらりくらりとなんとか戦国時代を生き延び、苗木の地で遠山一族の血を絶やすことなく継ぐことができた遠山友忠は本当に世渡り上手ですよね…!
明治以降の苗木城
江戸時代には特に動きがなかった苗木城。明治時代の廃藩置県によって苗木県となり、当時の藩知事であった遠山友禄は華族授爵ノ詔勅によって子爵となりました。
城が荒廃していった様子はほとんど語られていませんが、幕末ごろには苗木藩が城の漆喰を塗る経費が捻出できなかったと言われているため、江戸後期〜大正期にかけて廃れていったと思われます。
その後、1981年に国の史跡に指定された苗木城。2017年には続日本100名城に選定され、今では「岐阜のマチュピチュ」「岐阜のラピュタ」としてその特異な姿が穴場的な観光スポットとして人気を集めていますね!
苗木城の伝説
苗木城には「赤壁城」という別名があります。これは、城の壁が白漆喰ではなく赤土が剥き出しになっていることから名付けられた名前だと言われています。
そして、赤土をあえて剥き出しにしていた理由として、
城の下を流れる木曽川に住む竜が白を嫌っており、何度漆喰を塗り直しても熱い息を吹き嵐を起こして剥ぎ取ってしまうから
という伝説が残っているのです。
実際には資金不足で単に塗り直すだけの費用を用意できなかったからだと言われていますが、なんともロマンのあるお話ですよね!
苗木城跡の観光地情報
では、苗木城跡の開場時間や料金、アクセスや駐車場情報をご紹介します。
開場時間
城内自由散策のため24時間開放(日没後は明かりがありません)
【苗木遠山史料館】
9:30~17:00(入館は16:30まで)
休館:毎週月曜日(月曜が祝日等の場合はその翌日)
料金
城内自由散策のため無料
【苗木遠山史料館】
一般:330円
中学生以下:無料
季節の見頃
春の桜:4月上旬〜中旬
秋の紅葉:11月上旬
苗木城跡 まとめ
ということで今回は、かつては東美濃と呼ばれた岐阜県東部に佇む「苗木城跡」についてご紹介してきました。
まさにマチュピチュやラピュタを彷彿とさせる緑が生える石垣と山城跡の見た目はもちろんのこと、城跡から眺める中津川の絶景は本当に素晴らしいものとなっています。
織田信長や武田信玄にも密接に関わっており、戦国時代の重要地であることがわかる歴史も非常に面白いポイントですから、ぜひ岐阜観光や東海・中部エリアへの旅行を計画されている方は、苗木城跡にも足を運んでみてくださいね! 老若男女、どんな人にもオススメできる穴場観光名所であることは間違いありませんからね!
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