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今回は、チベット密教(チベット仏教)の歴史や特徴と偉人や伝説、四大宗派を中心とする宗派の種類、そして、日本の密教との違いについて解説していきます。
性行為を取り入れた仏教、インド後期タントラ仏教などとしても知られるチベット密教。密教の完成形とされるチベット密教ではありますが、その特殊なイメージからなかなか正しく理解されないことも多い印象があります。そんなチベット密教について気になっているという方、今なおチベット密教が盛んに信仰されているチベットはもちろん、インドのラダックやネパール、ブータンへ観光をお考えの方は、ぜひこの記事を最後まで参考にしてみてください!
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チベット密教の歴史
まずは、成立したところから現代にいたるまでのチベット密教の歴史をお話ししていきます。最初に歴史を知ることでチベット密教の概要を掴むことができますので、特徴や宗派の種類、日本の密教との違いについてなどがよりわかりやすく理解できるはずです!
吐蕃王国へ密教が伝来(有史〜7世紀)
日本に仏教が伝わる前に神道があったように、チベットでも仏教が伝わる前には「ボン教(ポン教)」という土着の民族宗教が広まっていました。また、ユーラシア大陸全土に広まっていた、「マニ教」という霊的世界と現実世界を厳しく分ける二元論を特徴としている宗教も信仰されていたと考えられています。
特に土着のボン教には伝説も残されており、紀元前5世紀頃のチベット最初の王の時代からボン教は定着しており、歴代の国王はすべてボン教の信者だったといいます。チベットにおける最初の王国誕生にもボン教は関わっており、こんな言い伝えが残されているといいます。
チベットにおける最初の王国の国王であるニャティツェンポ王は、天と地を結ぶ「天縄」を用いてヤルン(高国)の雪嶺に突如降臨した。 地元の人々はこの王を奉迎して自らの王とした。
ボン教信者の国王はその後、第30代の国王とされるソンツェン・ガムポ王の時代まで、約1000年にわたってチベットに君臨したと伝えられています。
そんなチベットに初めて仏教が伝来したエピソードも伝説となっています。
5世紀後半ごろ、天空から不思議な音楽に合わせて黄金の仏像や仏具などが降りてきたため、時の王ラトトリ・ニェンツェン王がそれらを祀ったところ、長寿を得ることができた。
これらの伝説はあくまで伝説であり、史実として論証されているわけではありません。
チベットへの最初の仏教伝来として確実視されている時期は、7世紀前半です。この時代は、チベットにおける英雄「ソンツェン・ガムポ王」が史上初めてチベット全土を統一し、吐蕃王朝を開いた頃になります。そして、仏教をチベットにもたらしたのは、ソンツェン王の2人の王妃、文成公主とティツンとされています。
文成公主は唐の玄宗皇帝の皇女で、当初ソンツェン王のクンソン・クンツェン王子に嫁いだものの、王子が落馬によって死んでしまい、チベットの慣例にしたがってソンツェン王の妃となったのでした。ラサ市内にある小昭寺(ラモチェ)は、文成公主がクンソン王子の菩提を弔うために建てた寺院とされています。
ソンツェン王のもう一人の妃であるティツンは、ネパールの王女です。ティツンは同じくラサ市内にある大昭寺(トゥルナン)を、ソンツェン王の冥福を祈るために建立したといわれています。
※小昭寺と大昭寺の創建に関しては異説もありますが、両寺がチベットにおける最初の仏教寺院であったことは間違いないと考えられています。
仏教が伝来すると、それまで信仰されていたボン教は激しく仏教と対立し、抗争を繰り返します。そんな対立関係が300年以上続いた頃、両者は次第に融合していきます。仏教側はボン教の神々と宗教儀礼を習合し、ボン教側は仏教の教理を吸収したのでした。そのため、今日のボン教はチベット密教の一派といっても過言ではないほど著しく仏教化しており、同じようにチベット密教にもポン教の影響が見えます。
なお、この頃のインドでは、ヒンドゥー教の台頭に加えイスラム教勢力の侵略が進んでおり、仏教の勢力が次第に弱まっていました。そんな時代のインドで発展したのが後期大乗仏教であり、これが「密教」となります。さらに、チベットに伝わった密教は、密教における後期のものにあたり、区分的には「後期密教」と呼ばれます。最終的にインドにおける仏教は、13世紀初頭にイスラム勢力の攻撃によって滅亡してしまいますが、その難から逃れたチベット密教(後期密教)が、その後の仏教の中心を担っていくこととなったのでした。
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チベット密教の成立(8〜10世紀)
8世紀、ティソン・デツェン王の時代となると、チベットで本格的に仏教が信仰されるようになります。というのも、ティソン・デツェン王自身が熱心な仏教徒であったため、仏教を国教としたからです。
ティソン王はインド後期の大乗仏教(つまりは密教)に精通したインドの高僧シャーンタラクシタ(寂護)をチベットに招き入れ、大寺院の建設に着手します。しかし、仏教の教えを阻む天魔たちによって工事が難航すると、シャーンタラクシタの助言に従い、当時インドで密教の大成就者として名を馳せていたパドマサンバヴァ(蓮華生)を招聘します。パドマサンバヴァはウッディヤーナからチベットまで神通力によって飛翔してわたり、しかもその途中に天魔たちを次々と調伏したのでした。パドマサンバヴァの活躍もあり、775年、チベット最初の国立仏教寺院にあたるサムイェ寺が創建されたのでした。この時期の日本は奈良時代に相当します。
もちろんパドマサンバヴァのエピソードには伝説が含まれているとは思われますが、パドマサンバヴァは「チベット密教の祖」として、今でも「導師様」を意味する「グル・リンポチェ」の尊称で宗派を超えて崇敬されています。
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創建されたサムイェ寺では、シャーンタラクシタを導師(グル)に6人のチベット人の授戒が行われ、僧伽(サンガ、仏教教団のこと)を形成する一方、サンスクリット語経典をチベット語に逐語訳する翻訳事業の拠点にもなりました。これはのちに、世界的に貴重なチベット大蔵経の成立へとつながっていくのです。また、サムイェ寺の創建をきっかけにしてチベット各地にも寺院が建てられ、仏教の研究と布教が進められていくのでした。
そのころ、中国で盛んだった禅仏教がチベットにも伝来し、少なからぬ影響を与えていました。その中心人物が、中国の禅僧である摩訶衍でした。
チベットに定着しつつあった密教において、悟りは着実な行(修行)によって得られるものでした。しかも、自らの解脱だけでなく人々の救済のために現世で利他行を続けていくというものでした。対して中国禅は、そうしたインド仏教の行を廃して、坐禅に徹し無念無作のまま一足跳びに悟りを開くことこそが重要だとしていました。つまり、自己が輪廻世界を脱して成仏することに主眼がおかれていたのです。当然、両者の間には軋轢が生じ、激しく対立することとなります。
結局、サムイェ寺を舞台に、ティソン王の面前でシャーンタラクシタの弟子カマラシーラ(蓮華戒)と摩訶衍との法論が行われ、カマラシーラが勝利を収めました。それ以降、チベットにおける仏教は基本的に密教を基盤にしていくという方向性が決定されたのでした。
その後の9世紀半ばに、廃仏政策をとるラン・ダルマ王が現れ、以後、仏教は王室の保護を失って受難の時代を迎えます。この時期までに伝えられた密教は、主にパドマサンバヴァを祖とする在家行者(還俗した僧侶や、出家をせずに普通の日常生活を送りながら仏教に帰依する人)たちによって伝えられ、教えを保ちました。ここまでの密教は、11世紀以後に伝来した新訳の密教と区別されて「古密教(古派)」と呼ばれ、現在では「古典派」を意味する「ニンマ派」と呼ばれます。
新訳経典と四大宗派の成立(11世紀中盤)
11世紀は、今日のチベット密教が成立する上できわめて重要な時代だったといえます。
当時、西チベットのガリー地方の王であったイェシェーウーは、仏教の復興を目指して優秀な若者をインドのカシミールへ留学させていました。その中に、のちに「大訳経官(翻訳官)」と呼ばれることとなるリンチェンサンポがいました。リンチェンサンポは膨大な数の経典をチベットの言葉に訳し、その後のチベット密教発展の一助となりました。リンチェンサンポが訳した中でも重要なのが、新訳密教聖典の『秘密集会タントラ』と『初会金剛頂経』です。どちらもチベット密教を学ぶ上で不可欠のものとされています。
また、インド後期仏教の総本山ヴィクラマシーラ大寺院の大学匠アティーシャもこの時代の人物です。アティーシャは、まだまだバラバラだった密教の方向性を整備・体系化し、チベット仏教を興隆させる基盤を築きました。具体的には、顕教(密教以外の仏教)も学んで戒律を守った上で、密教を学ぶことを説いたのです。
アティーシャの影響は各方面に及び、その系統は弟子のドムトゥンなどの活躍もあって「カダム派」と呼ばれるようになります。のちのツォンカパはアティーシャなどの教学をベースにして、現代のチベット密教における最大勢力である「新カダム派=ゲルク派」を創始することになります。
そして、11世紀後半までにチベット密教の主要宗派であるサキャ派とカギュ派も誕生します。
サキャ派は、チベットのツァン地方の名門氏族であるクン一族のクンチョク・ゲルポが、ドクミ訳経官から新訳密教を相伝し、1073年にサキャ寺を創設したのが始まりです。
カギュ派は、マルパ訳経官を実質的な開祖とし、チベットとインドのラダック地方を根拠地にした宗派です。マルパはインドやネパールにたびたび赴き、マイトリーパやナーローパから性的ヨーガをはじめとする、身体に影響を与える観想(イメージ操作)や呼吸コントロールによる悟りを目指す「究竟次第(くっきょうしだい)」 などを直授されました。そのため、カギュ派は密教色が色濃く現れている宗派とされています。また、チベット密教における最高の詩人とされるミラレパは、マルパの弟子にあたります。カギュ派はミラレパとその高弟のガムポパ(タクポ・ラジェ)などの後継者によって発展していきました。
仏教の中心地がインドからチベットへ / 四大宗派の勢力変化(11〜16世紀中盤)
チベットにおいて密教が発展していた11世紀ごろ、仏教の母国インドでは仏教自体がヒンドゥー教勢力に圧倒され、衰退を余儀なくされていました。13世紀初期には、大挙して侵入したイスラム教徒によってヴィクラマシーラ大寺院が破壊され、その灯がついに消え去ろうとしていたのです。
イスラム勢力の難を逃れてネパール経由でチベットに入ったのが、ヴィクラマシーラ大寺院の最後の座主にして大学匠のシャーキャシュリーバドラでした。シャーキャシュリーバドラはインド仏教の教えをチベット密教に移植したのでした。そんなシャーキャシュリーバドラを導師として授戒を受けたサキャ派のサキャ・パンディタ(サパン)は、さらに顕密の学を究め、やがてチベット始まって以来の大学者と謳われるようになったのでした。
当時、強大な軍事力を背景にしたモンゴル(元)は、政治的に分裂状態にあったチベットに侵略を開始していました。チベットでは急遽、諸氏族の首長会議が招集され、サキャ・パンディタが和平工作の代表に選ばれました。1244年、サキャ・パンディタは甥のパクパをともなってモンゴルに赴き、クテン王子と会合。その際に王子を仏法に帰依させ、結果的にモンゴルによるチベット侵略を防いだのでした。さらにサキャ・パンディタは、モンゴルにチベット密教を普及させる先駆的な役割をも果たしたのでした。
サキャ・パンディタの死後、パクパは1270年にフビライ・ハンの帝師となり、それによってサキャ派は以後、元滅亡までの約100年間、チベット全土の支配権を掌握することになったのでした。
また、サキャ派が隆盛を誇っていたのと同時期に、サキャ派から新サキャ派とよばれる顕密兼修(顕教と密教の両方を学ぶこと)の学者が台頭します。この新サキャ派のレンダワを師として学び、さらに学僧プトゥンの教学や、同じく顕密兼修の重要性を掲げるカダム派の教義などをもとに、チベット密教の改革に乗り出したのがツォンカパです。
ツォンカパは、当時、性的ヨーガ等によって堕落していたチベット密教において、厳格な戒律を重視しました。そして1409年、ラサ郊外にガンデン寺を造営し、ゲルク派を始動したのでした。ゲルク派の他派に対する影響力は大きく、その主旨に同調したカダム派の一派を吸収・合併しながら急速に発展していきます。
以後チベット密教は、ニンマ派、サキャ派、カギュ派、ゲルク派の四派を中心に展開し、時として対立抗争を繰り広げながらも、互いに影響を及ぼし合いながら今日にいたるのです。
※チベット密教におけるこの四大宗派について、詳しくはこの記事の後半で解説しています!
活仏制度の誕生(16世紀中盤〜17世紀中盤)
チベット密教の主要4派のうち、宗教的・政治的に主導権を掌握したのがゲルク派でした。その要因となったのは、「転生活仏制度(転生ラマ)」の一種である「ダライ・ラマ制」の成功にほかなりません。
活仏は菩薩の化身とされ、転生を繰り返して人間を救済し続ける存在とされます。活仏が死ぬとその転生者を探し出して引き取り、英才教育を施すのです。
※菩薩はブッダの一姿で、この世界に降りてきて人々を悟りへ導いてくれる存在です。ここから、活仏が最高位のホトケである如来ではなく菩薩の化身とされた理由が伺えます。
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この転生活仏制度を初めてつくり定着させたのは、カギュ派系のカルマ・カギュ派(黒帽派)でした。そして、カルマ・カギュ派の成功を目の当たりにした他宗派でも次々と転生活仏制度を採用されていったのでした。カルマ・カギュ派と対立関係にあったゲルク派も対抗政策として転生活仏制度の導入し、デプン寺の貫主で傑僧と謳われたゲンドゥン・ギャムツォの生まれ変わり(つまりは活仏)として、ソナム・ギャムツォを選んだのでした。
1578年、モンゴルの王侯であるアルタン・ハンの要請で青海(アムド地区、現中国青海省)に説法に赴いたソナム・ギャムツォは、アルタン・ハンの帰依を受けるとともに「ダライ・ラマ」の称号を得ました。「ダライ」はモンゴル語の「大海」、「ラマ」はチベット語の「上人」を意味します。
その後、ソナム・ギャムツォよりも2代前のデプン寺の住職であり、ツォンカパの弟子でもあったゲンドュン・トゥプパがダライ・ラマ1世として追認されたため、ソナム・ギャムツォは「ダライ・ラマ3世」とされました。非常に強力な軍事力を持つアルタン・ハンを後援者としたゲルク派は、ダライ・ラマのものと、以降政治的に、転生活仏の生みの親であるカルマ・カギュ派を含む他宗派を圧倒していくこととなります。
※ちなみにダライ・ラマ3世の死後、その転生者とされた4世はチベット人ではなくモンゴル人のアルタン・ハンの甥が選ばれました。このことは宗派内部からも露骨な政治優先策であると批判を招くことになりましたが、同時に、モンゴルの政治的影響力がいかに強大であったかを窺い知ることができる好例です。
そんなゲルク派に対抗するため、カルマ・カギュ派は中央チベットのツァン王シンシャクパをはじめ、リンダン・ハンやチョクトゥ・ハンを味方につけて最後の巻き返しをはかりましたが、結局、ゲルク派の新たな後援者となったモンゴルのグシ・ハンによって一蹴されたのでした。
法王ダライ・ラマの確立(17世紀中盤〜)
ダライ・ラマが名実ともにチベットの宗教・政治の最高権力者たる国家元首、すなわち法王として君臨するのは、1642年のダライ・ラマ5世の時代からです。その権威の確立には、強力なモンゴルのグシ・ハンの支持があったとされます。
ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされていますが、この説が唱えられて普及していったのは5世の時代からです。「ダライ・ラマ=観音化身説」を確固なものにするために、5世はラサ市内を見下ろすマルポリの丘に、壮大なポタラ宮を創建したのです(ポタラ宮の造営中に5世は死去しましたが、摂政のサンギュ・ギャムツォがそれを極秘にしたまま工事を続行し、着工50年目、5世没後15年目に完成したのでした)。「ポタラ」は「観音の聖地」を意味します。
5世はまた、パンチェン・ラマ制度の創始者でもあります。1665年、自分の師であったパンチェン・ラマの転生者を選び、ツァン地方にあるタシルンポ寺の貫主に就任させたのです。パンチェン・ラマはダライ・ラマに次ぐ第二の法王であり、阿弥陀如来の化身とされます。ダライ・ラマ同様、その地位は転生によって受け継がれるものとしました。5世のパンチェン・ラマ制度の創始はツァン地方の統治を確固にすることが目的でしたが、その後、パンチェン・ラマの宗教的権威が高まるにつれて、ダライ・ラマの権威に拮抗する存在になっていくのでした。
ともあれ、チベットではダライ・ラマ5世から現在のダライ・ラマ14世のインド亡命まで、約300年にわたってダライ・ラマ政権が続くことになります。その間にダライ・ラマは一宗派の垣根を超えて、全宗派、そしてチベット統合のシンボルとしての権威を確立していったのです。
現代におけるチベット情勢(中国との関係)
5世の死後、チベットは政治的に混乱し、清のチベット駐在大使がラサに置かれるなど、清王朝による圧政がしかれることとなります。チベットは鎖国政策をとっていましたが、19世紀後半に即位したダライ・ラマ13世の時代には、ロシアやインドを支配していたイギリスの政治的干渉も受けました。1910年に清がラサに攻め入り、ダライ・ラマ13世はインドに亡命。しかし翌年、中国で辛亥革命が起こって清が崩壊、国民政府が誕生すると、ダライ・ラマ13世は帰還し、チベットの独立宣言を行いました。
13世の死後、1940年に現在のダライ・ラマ14世が即位します。一方の中国では、第二次世界大戦後に内戦が勃発し、共産党が勝利。1949年に中華民主主義人民共和国が成立します。その翌年から中国人民解放軍がチベットに侵攻(中国側によれば「チベット解放」)を開始し、チベットを自国の領土に組み入れることになります。結局、ダライ・ラマ14世は中国の圧政に耐えかね、1959年にインドのダラムサラに亡命。各派の僧や信者たちの一部も亡命して、ダライ・ラマ14世を法王とする亡命政府を樹立したのでした。
中国のチベット侵攻後、寺院の多くは破壊されるなどの被害を受けていましたが、1966年から10年間に及ぶ中国の文化大革命によって、チベットの寺のほとんどが破壊され、僧も弾圧されるなど、チベット密教は危機的状況に陥ります。その後、中国政府は文化大革命を公式に誤りだったと認め、チベットの寺の一部が再建されつつありますが、完全な復興はいまだなされていません。
現在もチベット人の信仰対象となっている亡命中のダライ・ラマ14世は、その非暴力主義と世界平和の実現を強調する幅広い活動により、1989年にノーベル平和賞を受賞しています。
ちなみに、ダライ・ラマ14世が高齢になったことから、後継者について近年議論が繰り返されています。本来ならばダライ・ラマ14世が承認したパンチェン・ラマ11世が転生者を認定するのですが、中華人民共和国当局により連行されて行方不明となっているために、ダライ・ラマ14世は、指名もしくは選挙によってゲルク派のしかるべき高位の僧に次期指導者の地位を委ねる旨を示唆しています。活仏制度は中国政府によって利用されてしまうリスクもあり、ダライ・ラマ14世自身は、自らは生身の一人の人間であり、仏教の一僧侶であるという考え方を表明しています。この発信も、活仏制度を自分の代で終わらせると示唆する理由なのかもしれません。
※2007年、中華人民共和国国務院が「チベット仏教活仏転生管理弁法」を施行し、活仏の「転生霊童」の認定にあたっては、国家宗教事務局への事前申請ならびに許可を必要とすると定めました。すなわち、中華人民共和国国務院の許可がない活仏は、違法で無効とされてしまうのです。
日本の密教とチベット密教の違い
日本にも真言宗と天台宗を中心として、密教が存在します。しかし、ここまでお話ししてきたチベット密教については聞いたこともないという方がほとんどなはず。ダライ・ラマとも関係がありませんよね。
なぜかというと、日本とチベットにおける密教は、その種類が異なるからです。
中国を経て日本に伝わってきた密教は一般的に「中期密教」と呼ばれる密教であり、本来の大乗仏教の色が濃く残っています。具体的には、一般的に宗教ではタブー視される、血肉や骨といった要素や、”性行為”といった性の要素が含まれていません。
対して、地元チベットやラダックやシッキムなどのインドの一部地域、ネパールやブータンなどで現在でも信仰されているチベット密教は、「後期密教」と呼ばれる密教です。この密教は「タントラ密教(タントリズム)」とも呼ばれることがある仏教であり、血肉や骨といった要素や、性行為を「性的ヨーガ」として取り入れたという特徴があります。
現在ではチベット密教においても、性的ヨーガや血肉や骨を用いた儀式は行われていませんが、その信仰の証拠は守護尊を中心としたチベット密教ならでは尊格の姿に表れています。チベット密教における尊格は、「ヤブユム」という性行為中の姿で描かれているのです…!
なぜ密教が性行為を取り入れたのか等、密教成立の背景と歴史はそれだけで一記事を書けてしまうため、詳しくはコチラの歴史についてお話ししている記事をご覧いただければ幸いです!
また、「性行為中の尊格⁈」と思った方など、密教の仏や神様が気になる方はコチラの記事もぜひチェックしてみてください!
チベット密教の四大宗派
上述の歴史の部分でもお話ししたように、チベット密教には四大宗派があります。他にも宗派がないわけではありませんが、四大宗派の影響力に比べればごく小さいです。この状況は、15世紀からあまり変化していないといいます。
この記事の最後に、そんなチベット密教の四大宗派についてご紹介していきます。
四大宗派成立の概要
歴史の部分でも少し触れましたが、改めて四大宗派成立の全体の流れをお話しします。
7世紀のソンツェン・ガンポ王の時代に、2人の王妃、唐の玄宗皇帝の皇女である文成公主とネパールの王女であるティツンによってチベットに仏教が伝わりました。そして8世紀のティソン・デツェン王の時代に、お抱えの高僧シャーンタラクシタの助言により、インドからパドマサンバヴァが招かれました。
パドマサンバヴァがもたらしたチベット密教は大いに栄えます。しかし、仏教廃絶を考えた王がいたりと密教の勢いが一時弱まった時期がありました。それでも、11世紀にインドのアティーシャが招かれ、彼がまとめあげた密教がカダム派と呼ばれるようになります。アティーシャがもたらした密教は、新訳の経典に則るところが非常に大きかったのも特徴です。そんな”現代版”の密教と対をなすように、パドマサンバヴァがもたらした密教の教えを脈々と引き継ぐ宗派を、「古い宗派(古典派)」を意味する「ニンマ派」と呼ぶようになったのでした。
カダム派は戒律を重視したことが特徴で、その教えを14世紀にツォンカパがさらに革新し、ゲルク派(ダライ・ラマ派)を興しました。また、11世紀には、モンゴルとの結びつくことで力を得たサキャ派と、ティーローパ、ナーローパ、マルパなどによって大成した、密教色が強いカギュ派が成立したのでした。
ニンマ派
開祖:パドマサンバヴァ (蓮華生、グル・リンポチェ)
本山:ミンドルリン寺(南流)、ドルジェタク寺(北流)
ニンマ派はゲルク派と並び、チベット密教(チベット仏教)を代表する宗派です。「ニンマ」は「古派」「古典派」を意味し、チベット密教で最も古い吐蕃時代の流れを継承するといわれています(古いといっても8世紀ごろに成立したインド密教に基づいているため、7世紀のインド密教を継承する日本密教よりは新しいタイプといえます)。
開祖は、インドの行者にしてチベット密教の祖と言われる「パドマサンパヴァ(グル・リンポチェ)」とされますが、パドマサンバヴァが宗派を開いたというよりは、11世紀にチベットにもたらされた新訳密教経典を正典とする他の宗派と比べた際に、「古典的なパドマサンバヴァの教えをそのまま引き継いでいる」ということろから「ニンマ派」と呼ばれるようになった、という印象です。
他のチベット密教の宗派がインド後期大乗仏教系の新訳密教を正依の聖典として拡張させていくにつれ、古密教に由来しているニンマ派は不純な要素を持った非正統的仏教である、と批判を受けるようになります。そうした批判に対抗したのが、14世紀のロンチェン・ラプジャムパです。ロンチェン・ラプジャムパは新訳密教の成果を換骨奪胎(過去を大切にしつつ新しい要素も取り入れること)し、ニンマ派の究極の奥義である「大究竟(ゾクチェン)」の教えを初めて書き記すなどして、教義を整えたのでした。ロンチェン・ラプジャムパは、まさにニンマ派の中興の祖といえる人物です。
ニンマ派の特徴は、「テルマ」という「パドマサンバヴァが後世の人々のために隠した経典」を探し出し、それをもとに布教し多くの人々を救う、としている点です。これはパドマサンバヴァが予言したことともされており、口頭によって伝承されている教え「カーマ」の真髄を表しているとされています。また、これらパドマサンバヴァの教えには、読心術や千里眼、神通力や空中飛行術、死者蘇生術などもあるといわれています。
このように、ニンマ派は非常に神秘を重視しており、魔術的な伝説も多く残ることから、密教色が濃いといえるのも特徴です。 なお、ニンマ派総本山のミンドルリン寺(南流)とドルジェタク寺(北流)は文化大革命で被害を受けたため、インドにも再建されています。
サキャ派
開祖:クン・クンチョク・ゲルポ
本山:サキャ寺
サキャ派の開祖は、天孫降臨伝承を持つ”神聖家系”クン一族のクン・クンチョク・ゲルポです。サキャ派の代表はこのクン氏の系統から選ばれており、世襲制なのが特徴です。
クン族の伝承によれば、8世紀にインドの大行者パドマサンバヴァの弟子になった先祖がいました。その名をクン・ルイ・ワンポ・スンワといい、チベットで誕生した最初の仏僧のひとりといわれています。その後の11世紀に、開祖のクンチョクがドクミ訳経官経由で伝授された新訳密教経典『カーラチャクラ・タントラ(時輪タントラ)』を基盤に、中央チベット西部のサキャに寺を建立したことで、サキャ派は成立しました。「サキャ」とはその地の特徴を表す「灰白色の土地」という意味です。さらに、クンチョクの息子であり宗教的天才であったサチェン・クンガ・ニンポが、膨大な新旧の密教経典やタントラ聖典、口伝などを再編し、サキャ派経典の基礎を築いたのでした。
このサチェン・クンガ・ニンポは、サキャ派を確立した五大先師の大師として知られます。 五大先師は彼のほか、ソナム・ツェモ、タクパ・ギェンツェン、サキャ・パンディタ(サパン)、パクパです。
このうちサキャ・パンディタは、チベット、インド、ネパールなど各地を遊学し、顕密の両学、医学、占術、芸術をすべてマスターした人物です。その能力を買われ、モンゴルがチベットに攻め込もうとした際には和平交渉の代表に選ばれました。そして、会合でモンゴルのクテン王子を仏法に帰依させ、モンゴルによるチベット侵略を防いだだけでなく、結果的にモンゴルにチベット密教を伝えるという役割をも果たしたのでした。
サキャ・パンディタの死後、甥のパクパは元のフビライ・ハンの帝師となり、サキャ派の全盛期を築いたとともに、チベット全土の支配権を掌握することになりました。なお、パクパはモンゴル文字(パスパ文字)の創作も行なっている人物です。
サキャ派の教理面の特徴は、「修行者は悟りを目指して密教を実践すべきだが、実はその過程においても、すでに成仏の証果が得られている」と考える「道果説」を旨としている点です。また、サキャ派は「輪廻と涅槃は不可分で一体化したものだ」とも説いています。哲学的・学術的要素が強く、知識や学問に重きをおく宗派といわれています。
サキャ派の法系はクン氏一族で独占されているとはいえ、教学面は新サキャ派と呼ばれる、クン氏の血族とはまったく別の人々に受け継がれています。新サキャ派系では、ゴル派、ゾン派 (コンカル派)、ツァル派の3派があります。
現在のサキャ派は、ドルマ宮とプンツオク宮の二王家が統括し、サキャ寺の座主も両王家が交替で務めています。 両当主はチベット動乱後、相次いで亡命し、前者はインドにサキャ大学を設立、後者はアメリカにサキャ寺を創建しました。
カギュ派
開祖:ティーローパ(実質的な開祖はマルパとする説もある)
本山:ツルプ寺
カギュ派はインド在家の密教行者ティーローパを開祖とします(カギュ派の開祖を誰とするかは諸説あります)。ブータンやラダックで特に盛んで、カルマ派、ドゥク派(ブータン国教)、ディクン派、ツェルパ派、パクモドゥ派など多くの分派に分かれているのが他の宗派との違いとして挙げられます。名前の「カギュ」は「教えの伝統」を意味し、インド後期密教に基づくヨーガの神秘体験と師弟間の秘伝直授を必須とするのが特徴です。密教色が非常に色濃く現れている宗派としても挙げられます。
カギュ派を大成したのは、開祖のティーローパ、ティーローパの弟子であるナーローパ、ナーローパの弟子であるマルパの3世代とされています。そして、マルパの弟子のミラレパは、チベット密教において最も著名な詩人とされており、ヨーガのみで悟りに至った人物ともされています。
そんなカギュ派における一大勢力であるカルマ・カギュ派は、今日のチベット密教の最大の特徴になっている「転生活仏(トゥルク)」、すなわち「転生ラマ制度」を創始した宗派です。現在の高僧は、菩薩や過去の偉⼤な仏道修⾏者の化⾝としてこの世に姿を現している、という制度です。この「転生活仏」による相続制度は、信者の絶大な支持を得ただけではなく、派内の結束をかつてなく強固なものにしました。その後、カルマ・カギュ派の成功に倣い、転生活仏は他の宗派にも採用され、近世になるとほとんどの宗派が転生活仏を採用するようになったのでした。
なお、カルマ・カギュ派には黒帽派と赤帽派の二派があり、特に黒帽派は大きく発展し、現在ではカギュ派全体の最有力教団になっています。
ゲルク派(黄帽派)
開祖:ツォンカパ
本山:ガンデン寺
法王ダライ・ラマを頂点に据えるゲルク派は、チベット密教の四大宗派の中で最も新しい宗派でありながら、チベット密教における最大の宗派です。ゲルク派は所属の僧侶が黄色い帽子を被ることから「黄帽派」とも呼ばれ、特に戒律を重視する一派としても知られています。「ゲルク」は「徳行」を意味します。
14世紀ごろのチベット密教では、性的ヨーガ(ジョル)を口述に性行為に溺れる者があとを絶たず、呪術・呪殺(ドル)が横行し、僧侶の堕落が目に余るようになっていたといいます。
そんな時代に、ツォンカパは顕教(密教以外の仏教の教え)を完全に修めた者だけが性的ヨーガなどを含む無上瑜伽タントラの実践(すなわち密教の修行)が許されるとしたのです。ツォンカパは弟子たちとともに厳しい戒律を実践して大きな成果を上げ、僧侶の腐敗に業を煮やしていた人々から熱い支持を得ることになりました。この、顕教重視であり倫理道徳を強調したツォンカパの改革は、チベット密教の修行方法と出家教団のシステム上の矛盾的要素を解消したともいわれています。
ゲルク派の戒律厳守の体系化されたシステムは大きな反響を呼び、同じく戒律に重きをおいていたカダム派の主流を吸収するなど、各派にも大きな影響を与えました。ゲルク派は結果的に、チベット密教の伝統を損なうことなく刷新することに成功したのでした。
ツォンカパ自身はあくまで宗教者として一生を全うし、世俗の領域にはまったく関わりませんでした。しかし、彼の後継者たちは違いました。先行するカルマ・カギュ派の転生活仏の制度を導入し、「ダライ・ラマ」を誕生させて世俗の領域に進出していきます。その後、結んだモンゴル系遊牧民の強大な軍事力を背景に他宗派との抗争に勝利を収めたゲルク派は、17世紀にはチベット全域において、宗教的な権力のみならず政治的な権力まで握ることになったのでした。
チベット密教の歴史と四大宗派について まとめ
ということで今回は、チベット密教の成立から現代に至るまでの歴史と、日本の密教とチベット密教の違い、そしてチベット密教における中心的な四大宗派についてまとめてきました。
歴史や四大宗派について知れば知るほど、チベット密教の教義・教えや信仰方法への理解が深まりますし、ラダックやブータン、ネパールなど、チベット密教が今なお信仰されている地域への観光もおもしろくなること間違いなしです。また、特に転生活仏を中心とした近現代の歴史は、現在のチベットと中国の情勢を理解する上でも非常に重要なポイントとなります。
みなさんの知識を深めること、あるいは疑問を解消することに、この記事が少しでも参考になっていれば幸いです! そして、「そもそも密教って何?」「チベット密教で信仰されている神様や仏様って?」といった疑問に対しても記事を用意していますので、ぜひコチラの記事も参考にしてみてくださいね!
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