みなさんこんにちは!観光情報サイト「旅狼どっとこむ」の旅狼かいとです!
今回は京都にある「晴明神社」についてご紹介していきます。
晴明神社は平安時代に活躍した陰陽師「安倍晴明」を主祭神としている神社です。安倍晴明は、謎多き半生と陰陽師としての卓越した能力から、今でも漫画やアニメのモチーフとなる非常に人気の歴史上の人物ですね!
そんな晴明に関わり深いということで、京都でも有数のパワースポットとして知られる晴明神社。独特な雰囲気を醸し出す観光名所について、近くの”曰く付きスポット”「一条戻橋」と合わせて、伝説にまつわる見どころや歴史、アクセス情報をお届けしていきます。
晴明神社の見どころ
今回は早速、スピリチュアルな晴明神社に行ったら絶対にチェックしたい見どころからご紹介していきます。
神社の入り口「一の鳥居」
まずは境内の入り口となる「一の鳥居」です。晴明神社の一の鳥居には、社紋である「晴明桔梗」の五芒星が金色の文字で掲げられているのが特徴です。ふつう、鳥居の額には神社名や祭神の名前を掲げることが多いのですが、晴明神社の一の鳥居に掲げられているのは社紋です。これは全国的にも珍しいものといわれています。
社紋の「晴明桔梗」は「セーマン」とも呼ばれ、晴明が考案した陰陽道に用いられる祈祷呪符のひとつと言われています。今ではアニメやマンガでもよく見るマークですよね!
かつての趣が蘇った「二の鳥居」
一の鳥居をくぐって真っ直ぐに歩いていくと、境内中心部への入り口である「二の鳥居」が見えます。晴明神社は住宅街に立っているため、一の鳥居と二の鳥居の間には道路が道路が通されています。
現在の晴明神社の二の鳥居は、2017年(平成29年)に「晴明神社」と記された社号額が新調されたものとなっています。これによって、1854年(安政元年)に土御門晴雄により奉納された歴史ある社号額を忠実に再現したと言われています。
晴明の陰陽道の力を感じる「晴明井」
二の鳥居を進んで右手に見えるのが「晴明井」になります。なんでも晴明が念力により湧出させた井戸だと伝えれられており、湧き出す水は現在でも飲むことができます。
無病息災・病気平癒のご利益があるとされている晴明井の井戸水。湧き出るの取水口はその年の恵方に合わせて立春の日に向きを変えているそうで、吉祥の水が得られるようになっているのです。
ちなみに、井戸のすぐ下にあるのは「北斗七星」を模したものです。陰陽道は天文学とは切っても切り離せない関係にあり、天体観測において重要な枠割をもつ北斗七星は、陰陽道でも非常に重要な役割を担っているのです。
晴明を祀る本殿
境内の最深部に立つこの社殿こそ、安倍晴明を祀る本殿になります。現在の本殿は1905年(明治38)に建てられたものになります。
晴明桔梗が随所にあしらわれたこの場所に立っていると、ちょうど夕暮れ時だった場の雰囲気と合わせて、なんだか厳かで少し不気味さも感じられる奇妙な気持ちになりました。
ちなみに、本殿の北側には末社である「齋稲荷社」が佇んでいます。
「齋」という言葉は、齋稲荷社の祭神である稲荷神が「齋院」に関係していたことに由来すると言われています。「齋院」とは、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)に奉仕した皇女を指す言葉です。
では、そもそも関係ないように思われる稲荷神が晴明神社の境内で祀られている理由は何なのでしょう?
それは、安倍晴明が死後、一条天皇によって稲荷神と同一視されたことに起因すると考えられています。京都以外にある晴明を祀る神社でも、晴明信仰と稲荷信仰の習合が見られるようですよ!
ちょっと不思議な雰囲気になる「厄除桃」
本殿横には、ちょっと場違い感がある(笑)桃の像が置かれています。こちらは「厄除桃」と呼ばれる桃像です。
なぜ「桃」なのでしょうか? 実は中国や日本の陰陽道では、古くから桃が「魔除け」や「厄除け」の果物といわれてきたのです。
実際、『古事記』や『日本書紀』などでは桃を用いて魔物を追い払う様が描かれていますし、昔話『桃太郎』は、なんとこの桃の効用に由来するネーミングだと考えられているのですよ!
そんな桃の姿をした「厄除桃」、この厄除桃に自身の厄や禍々しい”何か”を撫で付けることで、自身の身が浄化されるはたらきがあるそうです。晴明神社へ行ったら厄除桃でお祓いしておきましょう!
御神木と桔梗のお守り
晴明神社の御神木は、推定樹齢300年の楠になります。楠はかつて天然由来の虫除けとして使われる樟脳の原料でしたから、虫を”祓う”という意味合いがあるのかもしれませんね。
また、境内には社紋である「晴明桔梗」のモチーフとなっている桔梗が約2000株植えられており、コバルトブルーと純白の花が毎年6月中旬から初秋にかけて咲き誇ります。特に「桔梗苑」と呼ばれる花壇が人気ですね!
桔梗の開花している時期には期間限定で「桔梗守」や「ききょう土鈴」も授与されますので、夏の時期は特に晴明神社に足を運びたいですね!
まさに呪術?!「四神門」
境内最後の見どころは、晴明神社の塀重門である「四神門」です。名前の由来は門の石柱の上に四神(東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)が掲げられているからとされています。
この四神門は安倍晴明がこの地に住んでいたときから立っているといわれており、なんでも「歓迎する客人が訪れた際はこの門がひとりでに開き、客人が門から出るとまたひとりでに閉まった」と伝えられているのです。
現在ではその逸話をなぞり、電動で開閉するようにしているそうですが、、なんか違う感。笑
ともあれ、五芒星が描かれた重厚な四神門を左右に入れて境内を撮れるこのポイントは、晴明神社屈指のフォトスポットだと感じました。その時の雰囲気を活かして撮影を楽しんでみてください!
千利休の屋敷跡
江戸時代の茶書によると、晴明神社の境内に当たる「葭屋町通元誓願寺下ル町」には「侘び茶の完成者」と謳われる茶聖「千利休」の屋敷があったとされているのです。そして利休は、茶を立てる際は「晴明井」の水を使ったとも言われているのです。
現在の晴明神社では、武者小路千家家元が利休の遺徳をたたえて立てたといわれる石碑をみることができ、石碑の正面には千宗守家元筆の「千利休居士聚楽屋敷趾」の文字が刻まれています。
日月柱
晴明神社の参道脇をみると、スッと立つ2本の柱が目に入るはずです。それらは「日月柱」と呼ばれる柱で、かつて四神門の門柱として使用されていたものになります。
柱上にある日月石像は、南に「日」、北に「月」が配されており、これで「陰陽」を表現しているのです。神社のこういう小さいところにまで気を配ってみると、神社たりうる理由がわかる気がしますよね!
晴明神社の祭神とご利益
では、気になる晴明神社の祭神とご利益をご紹介します。(記載方法は公式サイトに準拠しています)
祭神
安倍晴明御霊神
ご利益
「魔除け」と「厄除け」
祭神である安倍晴明は、生前に陰陽師として天皇や貴族、さらには庶民に至るまで広くその悩みや苦しみを取り払い、大きな信頼を得ていました。晴明神社のご利益はそんな安倍晴明の歴史に由来しています。
晴明神社の観光情報
【参拝時間】
9:00〜17:00
(無休、授与所は16:30まで)
【料金】
境内自由散策のため無料
アクセス
京都市上京区晴明町806(堀川通一条上ル)
075-441-6460
・地下鉄「今出川駅」から徒歩約12分
・市バス9・12番系統で「一条戻橋・晴明神社前」下車後すぐ
・市バス59番系統で「堀川今出川」下車後、徒歩約2分
駐車場は隣接するコインパーキングを利用する
晴明神社の歴史
お次は、晴明神社の歴史をご紹介していきます。
晴明神社の始まり
1005年(寛弘2年)に安倍晴明が亡くなると、晴明を重用していた一条天皇は晴明の遺業を賛え「晴明は稲荷神の生まれ変わりである」としました。
一条天皇はその証として、1007年(寛弘4年)に晴明の屋敷跡に晴明を祀る神社を創建したのでした。これが「晴明神社」の始まりです。
衰退と再興
当時の境内は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通にまで迫るほどの広大さを誇っていました。しかし、京都を舞台とした度重なる戦火に見舞われ、また安土桃山時代の豊臣秀吉による京都の都市整備などにより次第に縮小していき、いつしか社殿は荒れたままの状態となってしまいます。
そんな晴明神社に再び手が加えられたのは、幕末以降氏子らが中心となって社殿・境内の整備を行うところにまで至ります。1950年(昭和25年)には堀川通に面するように境内地が拡張され、現在の姿となりました。
現在の晴明神社
平成に入ると、マンガ化・映画化もされた夢枕獏の小説『陰陽師』シリーズが大ヒットを記録。主人公である安倍晴明のブームが起こり、全国から参拝者が訪れるようになりました。
2005年(平成17年)には安倍晴明の没後千年となる催し「安倍晴明千年祭」も開催され、一部のファンや歴史好き、パワースポットのご利益を求める人々から根強い人気を誇っているのが今日の晴明神社になります。
スピリチュアルな名所「一条戻橋」
最後に、晴明神社近くにあるミステリースポット「一条戻橋」についてご紹介します。晴明神社へ行ったら合わせていきたいスピリチュアルスポットでもありますよ!
一条戻橋とは?
晴明神社から南へ100メートルのところにある「一条戻橋」。
一見すると堀川にかかる普通の橋なのですが、実は安倍晴明と縁深いことで有名であり、さらには色々と”曰く付き”の場所でもあるのです。
一条戻橋の歴史と伝説
もともと「土御門橋」という名前だった一条戻橋は、『源氏物語』や『平家物語』、『撰集抄』など、平安・鎌倉時代の数多くの書に伝説が語られる橋なのです。
どんな伝説が多いのかというと、、
死者が復活したり鬼が現れたり、あるいは式神が人間と交わったりなどなど、、さまざまな奇怪な出来事についてのお話がほとんどなのです。
例えばということで、以下に3つ、一条戻橋でのお話をご紹介します。
『撰集抄』のお話
ある日、漢学者「三善清行」が亡くなり、彼を納めた棺がちょうど土御門橋を差し掛かったとき、清行の八男「浄蔵」が駆けつけました。修行に出ていた浄蔵は父に別れを告げられなかったのです。嘆き悲しんだ浄蔵は、「父さん、どうか息を吹き返してください」と棺にすがりながら祈ります。するとなんと、雷鳴とともに父・清行があの世から一時的に生き返ったのです。父子はこの奇跡に感動し、抱き合ったといいます。
この逸話が京都中に広まったことで、「あの世から戻ってくる橋」として「一条戻橋」と呼ばれるようになったと言います。
実はこの一条戻橋の場所は、都から北東に位置する鬼門にあたり、古くから魑魅魍魎が住む不吉な場所とされていました。また、橋とは元来、さまざまものの「境界」や「結界」となっていると考えられていました。
つまり一条戻橋は、洛中と洛外の境目でもあると同時に、あの世とこの世の境目としても捉えられるようになったのです。
『平家物語』剣巻
摂津源氏の源頼光が組織した郎党「頼光四天王」の筆頭「渡辺綱」が夜中に一条戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性がいました。すると女性は綱に「夜も更けて怖いので、家まで送ってほしい」と頼みました。
綱はこんな夜中に女が一人でいるのは怪しいと感じながらも、願いを引き受けて馬に乗せました。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方へ飛んで行ったのです。
綱は鬼の腕を太刀で切り落とし、何とか逃げることができました。
源頼光の四天王の一人として知られる武将「渡辺綱」が一条戻橋の上で鬼女と出逢い、名刀「髭切りの太刀」で鬼女の腕を切り落としたという伝説ですね!
『源平盛衰記』巻十
平安時代の占いの一つに、「橋を通る者を占う」という「橋占」がありました。『源平盛衰記』で語られた物語はそんな橋占に関わる伝説です。
高倉天皇の中宮「建礼門院」が出産する際、母の二位殿が一条戻橋で橋占を行いました。この際、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったといます。
この12人の童子は、のちに陰陽師「安倍晴明」が一条戻橋の下に隠していた式神「十二天将」の化身だったと考えられました。というのも、安倍晴明ははじめ使役していた十二天将を家の中に置いていたようなのですが、妻が式神たちの顔を怖がったことから、晴明は十二神将を戻橋の下に隠し置いて必要なときに召喚していたというのです。
このお話は、のちに壇ノ浦の戦いに巻き込まれて命を落とすことになる生まれた皇子(安徳天皇)の不穏な行く末を語っているだけですが、なんでもこの時の子供達は、「橋の下に住んでいた賤民と式神たちの間に生まれた子」という逸話もあるようです。
その後の時代のお話
その後も一条戻橋では、罪人が刑場へ連れ出される際に引き回された刑「市中引き回しの刑」の通り道となったり、豊臣秀吉が千利休の木像を磔にしたり、切腹した者の生首がこの橋のたもとで晒されたりと、なにかと”死”や”苦”に繋がる場所となってきたのです。
もちろん現在にもこの一条戻橋の逸話は影響しており、「戻る」を嫌って嫁入り前の女性や葬式の列はこの橋を渡らないのが習わしとなっているのです。
ここまで訳ありで現在に至るまで風習が残っている場所はなかなかないと思いますから、ミステリースポット好きの人や歴史好きの人なら、一度は行ってみたい場所なのではないでしょうか!
晴明神社 まとめ
ということで今回は、京都の「晴明神社」の見どころや歴史の紹介、さらには一条戻橋についてもご紹介してきました。こぢんまりとした境内ではありますが、そこには独特な雰囲気がありましたし、何より近くの一条戻橋は今なお伝説と伝統が残る”曰く付き”スポットです。
いつもとは少し趣の違った京都旅行や、パワースポット巡りを考えている人にはまさにうってつけの観光名所だと思います。桔梗の時期に合えば特別なお守りもありますから、ぜひ一度、あなたもこの晴明神社へと足を運んでみてくださいね!
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